*

近代観光の幕開け・・・大阪-別府航路就航100周年と油屋熊八

kohakumaru

1960年代の黄金期に多くの新婚さんを運んだ「こはく丸」

大分県別府市が西日本有数の温泉地に成長するきっかけとなった大阪-別府間の定期航路が28日、就航100年目を迎えた。大阪市の浅野宏子・浪速区長ら市や観光団体の幹部のほか、ゆるキャラの通天閣ロボなどを乗せたフェリー「さんふらわあ」が同日朝に別府国際観光港に到着し、記念セレモニーが開かれた。(5/28付 毎日新聞西部版

今日は話題を変えて関西-別府航路にまつわる話を。

かつて、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と謡い、関西方面を中心に多くの観光客を運んだ航路が来年で100周年を迎える。名門・関西汽船は今は長距離フェリーの「フェリーさんふらわあ」として運航しているが、来年5月の100周年に向け、船旅の魅力をあらためてアピールして、次の100年につなげる考えだ。

別府航路は、大阪商船(現商船三井)が1912年5月に開設。23年からは毎日運航となった。瀬戸内観光や別府温泉の人気が広まり、別府では地獄巡りバスが誕生、ふ頭の整備や観光施設の建設が進んだ。70年のピーク時には232万人の利用があったが、新幹線や飛行機との競争で現在は40万人(2010年度)まで減っている。

同航路は国内の近代観光発展に大きく寄与している。それまで、国内の長距離旅行と云えば、お伊勢参りや出雲大社参拝など神社仏閣系詣でが中心であった。温泉といえば、近場で過ごすものが相場であった時代、わざわざ船に泊まって別府まで行くという新しい旅行形態をつくった。別府はそれまでの湯治場のイメージに、レジャーランドの要素を加味した当時として画期的な観光地を作り上げた。

前述した、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」とは、別府観光の祖と言われる油屋熊八翁ら別府の旅館業者がPRのために富士山の山頂に掲げた宣伝柱である。この宣伝看板は全国各地に設置され、初めて観光にプロモーションの手法を取り入れた。

油屋熊八はこの他、日本で最初のバスガイドを自ら経営する亀の井バスに乗車させた。昭和3年のことであるが、「少女車掌」と呼ばれ、地獄巡りを七五調で案内をした。この伝統は今でも受け継がれ、同社の「地獄巡りコース」は七五調で案内されている。

熊八が活躍をした大正~昭和初期は、日本に観光産業が芽吹いた時期である。当時は行政が観光産業をバックアップする時代ではなく(観光課など存在しない)、すべて民間ベースで行われていた。熊八は私財を投じて、別府観光の開発に寄与したが、現実には桁違いの借金を抱え込んでしまっていた。

熊八の生涯は小説や舞台化もされており、『喜劇 地獄めぐり ~生きてるだけで丸もうけ』では中村勘三郎が演じており、管理人は興味があったので鑑賞させていただいた。

熊八は「観光王」といってもよいであろう。富士山頂にまで、広告塔を出すバイタリティとアイデアはすごい。たとえば、自分の経営するホテルの看板を公害のように設置する経営者はいるが、別府という土地を私財を投じてPRする懐の深さには感激する。地域への貢献がやがて、自らに戻ってくる。忘れてはならない図式だ。

ちょうど別府航路の開設と熊八の活躍、別府温泉の躍進は同時進行をしている。その後、別府航路は新婚旅行の黄金コースとなった。海外旅行が普及する以前は、別府から入り、宮崎方面や九州横断道路で阿蘇・長崎方面へ向かうのが定番コースであった。国鉄でも急行「フェニックス」という九州をほぼ全周する新婚さんご用達の列車があった。この横断道路も1920年代には熊八が計画しており、先見性には驚く。

航路の話に戻すと、関西汽船の客船もフェリーとなり合理化が進み、利用者は減少の一途。現在は商船三井の傘下となり、「さんふらわあ」で運航されている。航路の衰退と共に別府温泉も新興の湯布院や黒川温泉に客足を取られ、苦戦が続いていたが、最近では温泉本来の魅力が見直されて、客足が回復している。

今度は航路の方の復活も願いたいところだ。瀬戸内航路は揺れが少なく、乗船時間も手頃。クルーズ船としての魅力も秘めている。40年前の新婚さんたちにも、セカンド・ハネムーンを体験していただきたい。

 - すべての記事一覧, 公共交通(フェリー・船舶)