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亡くなられた堤清二氏と観光リゾートビジネス、弟義明氏と比較してみると

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左からクラブメッドサホロのOGショーとホテル西洋銀座エントランス

堤さんは一体、何人分の人生を生きたのだろうか。経済人堤清二と文学者辻井喬。相矛盾した二つの存在が、いずれも戦後史に大きな足跡を残したことは、驚くほかない。(11/29付 東京新聞

堤清二氏が亡くなられた。表舞台から姿を消して久しい弟の義明氏に対して、清二氏はつい最近までメディアに登場し、積極的に発言をされていた。セゾングループの失敗についても、客観的に語っており、興味深く読ませていただいていた。

清二氏は、西武百貨店やパルコなどの流通事業で成功を収めた後に観光リゾート事業へ乗り出しているが、管理人の記憶に間違いがなければ最初の開発が逗子マリーナではないかと思う。それまで逗子マリーナを運営していた太洋不動産と西武都市開発が合併、それぞれ一文字ずつとって西洋環境開発となり、本格的に観光事業へ進出している。

当時、すでにバブルの予兆のような時期であり、弟義明氏の国土計画は、プリンスホテルを基軸にホテルの新設と拡張、ゴルフ場やスキー場開発を積極的に行っていた。たとえば、苗場のプリンスホテルは毎年新館が増設され、ゲレンデやゴルフコースも同時に拡張されて行ったが、全国津図浦々にこれでもかというぐらいに新しい施設が作られていった。

義明氏は北海道でもプリンスホテルとスキー場、ゴルフ場をセットにして作っていたが、1980年代になってから新設されたものだけでも、函館七飯(大沼)、ニセコ東山、北広島、真駒内、深川、糠平、津別、屈斜路湖などがあり、既存の富良野や札幌プリンスホテルなども大幅に拡張・増設されている。美瑛富士や夕張岳でもスキー場開発を計画したが、反対運動に遭い、頓挫している。自治体からの要請で開発したものも多いが、北海道開発では先行していた東急グループへの対抗もあったであろう。

一方、清二氏の道内での活動は、小樽市での商業開発が中止となり、その後、釧路市でも大規模商業施設を計画したが、実際は「フィッシャマンズワーフMOO」だけで終わっている。管理人が不思議に思うのは、既にマチとしては斜陽の状態であった小樽、釧路に商業施設を作ろうとしたことだ。小樽の計画は1980年代初頭であり、まだ小樽が観光地として整備されていなかった時代、釧路も炭鉱や漁業の不振で経済状態は悪化、まだ釧路湿原も知られておらず観光客も少なかった時代だが、その頃にいったい何を作ろうとしていたのであろうか。

清二氏らしい活動はサホロスキー場を買収し、日本発の地中海クラブ(クラブMed)を作ったことであろう。地中海クラブは滞在型であり、欧州のバカンス文化を初めて日本に持ち込んだといってよいであろう。義明氏がプリンスホテルを頂点にスキー場とゴルフ場をセットで売り込んでいた時代に優雅なバカンスライフを提供した。その後に開業した国内初のコンシュルジュによるラグジュアリー型ホテル「ホテル西洋銀座」にも云えることだが、量よりも質重視の施設を作っていった。

義明氏の開発手法は関西でみられる電鉄会社の手法を踏襲しているが、沿線開発では飽き足らず、全国へ展開した質より量で売る典型的な不動産屋ビジネスといってよいであろう。それに対し、清二氏はライフスタイルまで見据えた提言型ビジネスともいえるのではないか。1980年代初頭のセゾングループの「おいしい生活」の頃からはじまった一連の流れのひとつに地中海クラブや西洋銀座があると思う。義明氏は消費者が休日やアフターファイブなどで効率的に消費ができる観光ホテルビジネスを練っていたと思うが、清二氏は消費者の365日、24時間のライフスタイルを考え、消費の質を変えることを考えていたのではないであろうか。現実的な義明氏と理想的な清二氏の違いがみられる。

清二氏が観光リゾート産業に参入したのは、義明氏へのライバル心があったのではないかといわれていたが、実はよく棲み分けされていたと思う。清二氏にプリンス商法へのアンチテーゼがあったかどうかはわからないが、結果としてはホテルを大衆化したプリンスの義明氏と品質を上げた清二氏がおり、結果的には西武グループの繁栄につながっていた。

奇しくも、兄弟二人はグループから最後は追われてしまったが、義明氏が苦境に立たされていた時、清二氏がバックアップをしていたのが印象的であった。この二人は、無意識か暗黙の世界かわからないが、助け合っていたような気がしてならない。まだ、健在の義明氏の話を聞いてみたいところだ。

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