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あの平和台球場は今・・・・

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僅かに残る平和台球場スタンド
福岡といえば西鉄、西鉄といえば西鉄ライオンズ(強引、今はソフトバンクホークスだが)。ちょうど鉄腕・稲尾和久さんが亡くなる2日前に博多を訪れたが、夕方時間が少しあったので、ふらりと稲尾さんが活躍した平和台球場へ宿のある天神から大壕公園まで歩いてみた。
管理人は、西鉄黄金時代や稲尾さんの現役時代は知らない。初めて知った稲尾さんは西鉄末期に33歳の若さで青年監督として就任した時であったが、早々にあの「黒い霧事件」に巻き込まれ、鎮痛な面持ちで、涙を流していた姿が子供心に記憶にある。この時、5年で100勝を上げた池永さんが事件に巻き込まれて永久追放処分を受けている(一昨年に名誉回復された。それも稲尾さんなどの地道な運動があったからこそである)。余談だが、東中洲で池永さんが経営するスナック「ドーベル」は年内で閉店するとのことである。
管理人は、稲尾さんが監督を務めていた西鉄末期、そして太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズの大ファンであった。無茶苦茶弱くて、ハチャメチャな球団だったが、西鉄時代からの熱狂的なファンが全国にいた。
ファイターズファンには悪いが、昔の後楽園球場では、ライオンズファンの方が圧倒的に多かった。勝っている時や7回攻撃の前にはファンが内野席通路でスクラムを組んで炭坑節を唄った。懐かしい時代である。最初にトランペットで応援をしたのは広島カープではなく、ライオンズの東京応援団のはずである。
ファンは意外に若く、西鉄黄金時代を知らず、さらに博多とは縁も所縁もないような人が多かった。
その頃は、金やん率いるロッテオリオンズと稲尾監督の太平洋クラブの「遺恨対決」が有名であった。実は裏ですべて仕組まれており、ポスターに乱闘シーンの写真を使い、「平和台で決着」のようなプロレスまがいの宣伝をして、リーグから大変なお叱りを受けた。
金田監督は気の毒で、平和台では瓶や缶が集中砲火され、小便の入った一升瓶を頭から掛けられたこともあったらしいが、二人の監督はパリーグの灯を消すまいと必死に盛り上げていたのだ。
これを仕組んでいたのが、同時の球団社長の坂井さん、後に西武球団やダイエーの社長となり、、現在はプロ野球経営評論家だ。先日、亡くなったオーナーの中村長芳氏の片腕で、もともとはロッテ球団の”準オーナー”(この経緯は説明すると長くなるので省略)であったが、オーナー共々移動して西鉄を譲り受ける。
今では許されない行為だが、当時のパリーグは存亡の危機であった。太平洋クラブ、そしてクラウンライターとしてチームが消滅するまでの7年間、親会社を持たず、福岡野球株式会社という独自の法人が、営業収入のみで運営をしていた。チーム名の太平洋とクラウンは、冠スポンサー企業であり、今のJリーグと同じような経営スタイルであった。
東京のファンもかなりの過激派で、今では言えないような野次が飛び交っていた。ファイターズの名二塁手・大下などはバッドをもってスタンドに殴りこんできたし、1試合で1イニングごと全ポジションを守って有名になったTHは、何と試合終了後、ライオンズファンに一撃を食らわせようと通路で待機していた。
それを知った大沢監督が「T、お前何やってんだ!!お客さんには手出しちゃいかんぞ。お前のやっているこを考えてみろ」と怒鳴られて退散した光景を覚えている。
その後、75年に太平洋クラブの監督を辞めた稲尾さんは後楽園球場の放送席で、九州オンエア向けのラジオ解説をされていた。稲尾コールをすると放送中にも関わらず、放送ゴンドラから客席に向かって手を振ってくれた。隣りのゴンドラ(RKBとKBC)には中西太さんが解説をされており、負けじと手を振り返してくれ、お二人とも人がよかった。
ホームの平和台では、ナマで観戦することなく、チームは79年に西武に身売りされて、福岡から所沢へ移っていった。あの時の悔しさは一生忘れないであろう。あれ以来、本気で応援できるチームがなくなった。
稲尾さんはその後、ロッテの監督や中日の投手コーチになった。あの落合博満も稲尾さんの時に開花し、全盛を迎えた。
稲尾さんが何度も鉄拳制裁をしてまで育てた東尾修は、「黒い霧事件」で主力がどっさり抜け、急遽一軍へ。先発、救援と西武へ行くまでの11年間、酷使に耐えた。投球回数が300イニングを超えることはざらで、西鉄最後のシーズン72年は18勝25敗、太平洋時代の75年は317イニング投げて23勝15敗7セーブ。78年も303イニング23勝14敗2セーブ、投手が分業制になってからの記録なので意味がある。もしあのまま九州で弱いライオンズが続いていたら350敗ぐらいはしたのではないか(実際は247敗)。
稲尾さんは遥かに多い400イニングを投げていた。年間42勝、5年連続30勝はあまりにも有名だが、人間技とは思えない記録であり、史上最強の投手といっていいのではいか。今シーズンの最多勝、西武の涌井は、17勝10敗、投球回数も両リーグ最多の213イニングだが、これを見ても稲尾さんがいかに凄かったかがわかる。
今は取り壊されて、遺跡発掘調査が行われている平和台球場。スタンドの一部が遺構のように残っているが、かつてサムライ軍団がいたこの場所は、まさに兵も夢の跡だ。70年代の古きよきパリーグの時代である。
稲尾さんが亡くなる2日前足を運んだ平和台、不思議な縁をかんじた。
野球少年時代の楽しい思い出ありがとうございます稲尾さん。ライオンズ、そして平和台球場。
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上:西鉄時代の稲尾投手(ベースボールマガジン)中:太平洋クラブ監督の稲尾監督(野球カード)下:太平洋クラブのエース東尾と加藤初(ベースボールマガジン)

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