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グレート草津さんと国際プロレスの思い出


IWA世界タッグ選手権 新日本プロレスとの対抗戦 草津&浜口VSヤマハブラザース
元プロレスラーのグレート草津さんが亡くなられた。酒豪だったことが寿命を短めた理由のひとつであろうか。
草津さんは天才的なレスラーであった。G草津といえば必殺・足四の字固めだが、それ以外にも真っ直ぐ伸びるルーテーズばりの美しいドロップキック、ロープに投げてのコブラツイストなど技の入り方が上手く、天才的であった。持って生まれた体格と勘のよさ、技のキレはジャンボ鶴田と共通するものがあったが、自己主張はせずに、あくまでも地味であった。
唯一、四の字固めでギブアップを奪うと、簡単にははずれないということでレフリーやセコンド数人がリングに上がってきて時間をかけてはずして行った。ライバル団体に出場しているデストロイヤーの四の字は簡単にはずれるのに草津選手の四の字は数人がかりでないとはずれない!!
これは説得力を持たせる為のギミックだが、G草津の四の字がなぜ簡単にはずせないかテレビの翌日は小学校で討論になったものだ。
管理人が小学生の頃はプロレス全盛期。金曜日夜8時は日テレ系列で馬場や猪木の日本プロレス中継があり、水曜7時にはTBS系列で国際プロレス中継があった(国際プロレスは日時がよく変わった)。
日本プロレスに比べると人気がなく、馬場の全日本、猪木の新日本の3団体時代になっても低迷がつ続き、結局1981年に団体が崩壊するまで常にマイナーな存在であった。
そんな国際プロレスだが管理人は好きで何度も観戦に行っている。メインイベントの後に金網デスマッチをやるのが恒例で、結局これが自らの首を絞めたような気がする。
草津選手は黒子に徹している印象で、常に二番手。ストロング小林やラッシャー木村に抜かれていってが、自分はトップに立たず、むしろ苦しい台所を支える為マネージメントに徹していたようだった。センスがあるにも関わらずファイトぶりはいまひとつ覇気がなく、管理人が中学生の頃は亡くなった方に失礼だが「無気力草津」などと友人と呼んでいた。しかし、晩年までIWAタッグ選手権を長きに渡り保持、パートナーもサンダー杉山、ラッシャー木村、マイティ井上、アニマル浜口と変わり、国際プロレスの歴史そのものであった。
今から10年ほど前、国際プロレス同窓会のような試合が後楽園ホールであり見に行った。この時のゲストが草津さんであったが、紺のスーツに白いYシャツとネクタイ姿で現役の時と殆ど変わらない姿をお見かけした。引退後は現役時代の名前を活かした形でサラリーマンをされていたようだが、最近では息子さんが同じグレート草津のリングネームでK1に上がっていた。
国際プロレスが崩壊したのが1981年の8月だから間もなく27年が経つ。早いものだが、最後の試合は北海道羅臼町で行われている。国後島を望む小学校のグランドが会場であったが、これほどラストに相応しい会場はない。また、国際プロレスは北海道での試合が目茶苦茶多かった。また、ススキノに国際プロレス直営の焼肉屋「国際亭」というものがあったらしいがご存知の方はいるであろうか。
東京12チャンネルが放映していた晩年、ラッシャー木村の故郷・中川村中学校体育館から中継があり、アンドレ・ザ・ジャイアントが入場するとプロレス慣れしていない観客が悲鳴を上げて逃げ惑い、体育館がパニックになったのを覚えている。木古内町からの中継では後に大スターになるダイナマイトキッドが初来日の初戦でいきなり世界ジュニア選手権であったが、どうして木古内でやったのか興味深い。
草津さんの死去、また子供時代の思い出がひとつ消えた。北京では草津さんの分もアニマル浜口親子に頑張ってもらいたい。
”赤コーナ~ IWA認定世界タッグ選手権保持者 260パウンド グレード草津~”(伏目がちで両腕を軽く上げ、握った拳をパーの字にしてガウンを脱ぐ)。

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