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1970年代パリーグ暗黒時代の話をしよう ファイターズ編(1)「悲しきヒーローインタビュー」

先月、70年代パリーグについて書いたところ多くのアクセスを戴いた。昔のパリーグについて続編を書いてほしいという要望もあったので、今後不定期であるが週末を中心に、1970年代のパリーグ(通称:暗黒時代)について、管理人がナマで見聞きした話を書いて行きたい。
第一回目はファイターズ編(1)ということで球団創生時の頃の出来事について記憶を辿りながら書いてみたい。ファイターズの試合に関しては1970年頃の東映フライヤーズ時代から記憶があり、1988年頃まで200試合以上は見ていると思う。
実は小学校入学前から親に連れられて後楽園球場のフライヤーズ戦、また、あの伝説の東京球場でのオリオンズ戦を中心に観戦しており、あまりセリーグは見ていない。その理由としては都内に住んでいる頃、生家の近くに立教大学野球部のグランドがあり、我が家に選手の何人かが下宿していた。管理人が生まれた前後の時代であるが、その中の選手の何人かがプロ(パリーグが多かった)へ進み、その関係で連れて行かれていくうちに、野球はパリーグになってしまった。それでは本題へ。
悲しきヒーローインタビュー
ファイターズ球団は1974年シーズンに誕生した。チーム名もフライヤーズからファイターズへ、過去のカラーを払拭しようと球団社長にはあの三原脩、監督には三原の娘婿にあたる中西太が迎えられた。
当時のパリーグの人気構図といえば、ロッテオリオンズがホーム球場がないジプシー球団ながら金やん人気もあり、もっとも観客動員数が多かった。準本拠地の仙台宮城球場をメインに、後楽園、神宮、川崎、静岡草薙などで試合を行っていたが、74年シーズンはプレーオフで強豪・阪急ブレーブス、日本シリーズでは中日を破り、日本一に輝いている。
次に人気があったのは福岡平和台を本拠にした太平洋クラブライオンズである。メジャーリーグばりの当時では斬新であった赤や青のユニホーム、ロッテとのプロレスばりの仕込まれた遺恨試合などパリーグを大いに盛り上げていた。
在阪球団、阪急、近鉄バファローズ、南海ホークスは実力も接近、常に優勝候補であった。上田、西本、野村というプロ野球を代表する智将が指揮を執っていたが、関西に3球団あったことも影響してか人気はなかった。
人気面で言うシンガリは、ファイターズであった。人気がないのはその時始まった訳ではなく、東映時代から不人気であった。原因はもともとのホームであった駒沢球場が東京五輪の関係で閉鎖され、その後、神宮、そして後楽園と他球団のホーム球場に居候の格好。盟主巨人軍と同居したため、この不幸は札幌ドーム移転まで続くことになる。
1974年シーズンの年間観客動員数は55万人でパリーグ全体では4位となる。ちなみに1位はロッテの87万人で最小は近鉄の31万人である。当時はひどい水増し発表の時代であったので実数では30万人程度ではないか。1試合平均にすれば5千人弱とみる。
当然、メディア露出は今とは比較にならないほど少なかった。NHKが年間数試合放送する程度で、またプロ野球ニュースも始まっていない時代。記憶では、当時のファイターズには応援団もおらず1塁側は静まり返っていた。そこで何とか盛り上げようということで球団自ら「お立ち台&ヒーローインタビュー」を始めた。ご承知の通り、ヒーローインタビューはテレビやラジオ局が持ち回りでやるものだが、当時、ファイターズ戦が全国へ流れることは滅多にない。そこで放送が無くても、勝てば勝利インタビューを行った。
この「ヒーローインタビュー」は、球団職員がアナウンサーの代わりになって行うもので、メディア向けのものではなく、あくまでも球場内にいる観客へのファンサービスである。この時、インタビューをしていたのが、記憶に間違いがなければ、後に札幌移転へ尽力貢献し、球団社長になった小島氏である。
答える選手もあまり気持ちが入っていなかったが、この自前ヒーローインタビュー、1シーズンで終わったのではないか。最初からファンサービスには熱心なファイターズ球団であったが、試行錯誤の時代であった。今の札幌ドームを見て、小島さんは何を思うであろうか。

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