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ファイターズ坪井選手の父、新三郎選手の現役時代と当時のライオンズの話


坪井パパ 坪井新三郎選手のライオンズ時代の勇姿
プロ野球交流戦が始まった。一軍昇格した中田翔がプロ初打席初安打を記録したが1年前とは別人のような絞った身体と精悍な面構え。あらためてプロの凄みをかんじた。好調なファイターズと共にこちらの方も楽しみだ。
ところで管理人の好きな選手のひとりに坪井智哉選手がいる。阪神時代から好きなプレーヤーだったが、6年前、東京ドームでナマで見て以来、追っかけている。
実は坪井選手のお父さんも元プロ野球選手で坪井新三郎(登録名は信三路)といった。中日、太平洋クラブ・クラウンライターに在籍した二塁手だが、管理人は以前のブログでも書いた通り、子供の時からのパリーグファン、特に九州時代のライオンズが好きだった。なので坪井パパの現役時代も覚えており、坪井智哉があのライオンズの坪井の息子と知った時は管理人も齢を取ったとかんじたものだ。
今日は坪井パパ(坪井信三郎選手)と当時のライオンズの話などをしたい。
「you Tube」画面の顔、これがクラウンライター時代の坪井選手だ。やはり親子、似ている。小柄な体型も似ている。当時、坪井パパは内野の控え選手で守備固めで登場していた。守れるが打てない、昔はそういう非力な選手を「自衛隊」と呼んでいたが、坪井パパも”専守防衛”の選手だった。
中日から76年にトレードされて来たが、当時、ライオンズの二塁手といえば後に大洋でも活躍する名手・基満男が不動であった。しかし、基は怪我や就任した鬼頭監督との折り合いが合わず(噂)、レギュラーを外されていた。代わりにロッテからトレードされた吉岡悟が予想外の活躍をして、76シーズンに首位打者を獲得。二塁に定着するかと思われたが、翌77シーズンは不調で、レギュラーを外されるようになり、二塁ポジションは一定していなかった。
前置きが長くなったが、そのシーズンに坪井パパの出番があった。記憶に間違えなければ、ナマで観戦した77シーズンの後楽園球場でのファイターズ戦でパパは先発出場したはずだ。スターティングメンバー発表の時、「セカンド坪井背番号5」とアナウンスされると驚きのような声が上がったのを覚えている。
ナマパパを見たのは2,3回であろうか。正直、記憶には薄い選手であったが、記憶力が旺盛な中高校時代だったので脳ミソにはしまわれていた。結局、そのシーズンでパパは退団している。選手層が薄い当時のライオンズでは貴重な戦力だったはずだが、親会社なしの超貧乏球団であったため、整理の対象になってしまったのか。
you Tubeの画像、なかなかの力作で面白い。特に在籍選手の年俸が興味深い。最高年俸は、清原の師匠で”無冠の帝王 18才の4番打者”と呼ばれた土井正博が1600万円、投手では孤高のエース東尾修が1100万円(77シーズンは42試合登板11勝20敗4S)、以上が1千万円プレーヤーである。
昨年逝去された監督の鬼頭政一でさえも600万円、前年度、首位打者を獲得した吉岡悟で580万円、同じく前年度、オールスターに出場して大活躍をした太田卓二が500万円である。ちなみに坪井パパは240万円で2軍選手並みである。既に智哉選手も生まれていたので生活も楽ではなかったのではないか。
77年の物価は、当時を100とすれば現在が170程度、大卒初任給が10万円だったので2倍弱といったところか。それと比較しても当時のライオンズの安月給ぶりには驚かされる(プロ野球全体が今とは比較にならぬほど薄給であったが)。これが夢を売る商売の待遇であろうか。そんな環境でも、76,77シーズンは吉岡、太田の他にも真弓、若菜、永保、山村などが台頭、家貧しくして孝子出づであった。
30年前のパリーグを考えると今の選手は本当に恵まれている。給与は実質で5倍以上になっているのではないか。暖かいファンに囲まれて羨ましい気もする。
youTubeで使われている♪白いボールのファンタジー♪は懐かしい。トランザムの名曲だ。西武が登場した79シーズンからパリーグ各球場で流れていたが、それまでの暗黒パリーグから新しい時代の到来を予感させてくれるような曲であった。是非パリーグの愛唱歌として、皆で歌いたいものだ。

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