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北海道ローカル路線バスで秘境旅 釧路駅-弁天ケ浜(たくぼく循環線)「啄木と挽歌の街を行く」くしろバス 前編

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釧路駅前に停車する「たくぼく循環バス」と啄木像

8月以来の「北海道ローカル路線バスと秘境旅」をアップします。

道東最大の都市、釧路駅へ降り立つと、はるばる遠くまでやって来たという実感がこみ上げてくる。釧路には数十回降り立っているが、何度来てもこの感覚は変わらない。

「はるばる来たぜ」で有名な函館は青函トンネルが出来てから、「はるばる」という感覚が薄らいだ。何しろ駅舎も北欧風のものに建て替えられ、無機質な印象が強くなり、旅愁というイメージではなくなった。北海道の玄関口には変わりないが、やはり賑やかな観光地である。
その他の道内都市、たとえば旭川や帯広に降り立っても、旅路の果てという意識は少なく、いち地方都市に来たに過ぎないという感覚だが釧路はどこか違う。

北海道を流浪した俳人・石川啄木が釧路駅に降り立ったのが、明治41年の1月のこと。100年以上も前のことである。その時の印象を「さいはての駅に降り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んでいる。
五木寛之(ペンネーム立原岬)が作詞した演歌に「旅の終わりに」(冠二郎 歌)という曲がある。
『流れ流れて さすらう旅は 今日は函館 明日は釧路』というフレーズだが、時代が変わってもこの街の印象は変わっていないようだ。

わたしが初めて釧路駅に降り立ったのは啄木が来釧してから約80年後の1990年2月のことだ。特急「おおぞら」の扉が開くと、、冷気がいっきに襲ってくる。北海道で言う「しばれる」とはこのことを指すようだ。マフラーをしっかりと締直し、改札から駅前へ出ると、とっくに陽は沈み、周囲は閑散としており、街全体が凍りついたような印象だった。

釧路駅からホテルまではタクシーに乗った。歩けない距離ではなさそうだが、このしばれと暗い駅前を見て、気持ちは萎えている。タクシーは北大通を幣舞橋方面へ向かい、橋を渡ってロータリーを左折、川岸に出来たばかりのホテルへ到着した。運転手は無言であったと記憶している。

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左・釧路キャッスルホテル 右・ホテル客室から眺める幣舞橋

お城のような大変ユニークな外観であったが、ここは釧路出身の建築家・毛綱 毅曠(もづな きこう)氏が設計した釧路キャッスルホテルであった。新釧路川(幣舞橋)を挟んだ駅側には、観光シンボルとなっている「フィッシャマンズワーフMOO」があり、ここも毛綱氏設計のもの。後で知ったことだが、市内には氏設計による多くのポストモダンン風の建築物がある。
非機能的と云うか無駄なスペースも多いが、シルエットは美しく、大型施設の多くがバブル期に作られているので、その時代をかんじることができる建物が多い。

ホテルへ来る途中、大きな花時計とロータリーがあった。
日本ではロータリーはあまり見かけず、道内で大きなものは旭川とここ釧路ぐらいではないであろうか。このロータリーを周回し、古い民家が立ち並ぶ道路に入るとかつての中心地・南大通である。
釧路は幣舞橋を挟み、駅側を北大通と呼び、官庁街や末広町・栄町などの繁華街があるが、もともとは橋の南側の南大通がメインストリートであった。このあたりは啄木ゆかりの場所や釧路を全国的に知らしめた小説「挽歌」(原田康子)の舞台になったエリアだ。もっとも港町・釧路らしい風情が残り、歴史が詰まっている通りと云える。

この南大通方面へは釧路駅から「弁天ケ浜」行きのくしろバスが出ているが、私が釧路ではじめて乗ったバスがこの路線である。駅前通(北大通)から幣舞橋を渡り、南大通へと入り、旧市街を立ち寄りながら港町から海へ、終点の弁天ケ浜で道路は果て、先は太平洋、炭鉱鉄道の踏切り前が終点で、ひっそりと啄木碑が建立されている。

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終点弁天ヶ浜バス停 踏切の先は太平洋

弁天ケ浜行きバス乗り場は釧路駅バス乗り場1番、バス系統も1番なので由緒正しき路線なのであろうか? この区間を走る「くしろバス」は1989年までは「東邦交通」と名乗っていたが、私が初乗車した頃に今の社名にあらためている。

釧路市内にはもう一社、車体に大きな鶴が描かれている「阿寒バス」があるが、くしろバスも最近では丹頂鶴をイラストしたバスを走らせている。 やはり、鶴の町である。

くしろバスはおもに釧路海岸部、厚岸や霧多布方面、白糠など太平洋沿岸に路線を張り巡らせている。1990年、私が最初に乗ったバスは恐ろしく古い代物であった。旧東邦交通時代のカラーらしく、車体は薄茶色で赤と紺色の帯が入っている車両だ。あまり趣味のよいデザインではなく、何となく淀んだ気分にさせてくれる。

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くしろバス旧東邦交通時代の車両

車体は錆付いていたが、釧路のバス車両全体が錆付いていることに気付いたのは、この初乗車の後だ。釧路は霧で有名だが、海霧ですぐに錆びてしまうらしい。釧路ナンバーの中古車は買取相場が安いという。真偽は定かではないがそんな噂をきいたこともある。

お城のようなホテルに泊まった翌日、ホテルで啄木散歩マップを貰ったので、起点の釧路駅まで戻り、足跡を辿る路線バスに乗車した。釧路駅前を出発した弁天ケ浜行きのバスは広い北大通を南へ向かう。歩道を行く人の多くは高齢者で、男性は襟に毛が付いたような紺色のジャンバーを着ている人が目立った。競輪や競艇など公営ギャンブル帰りの客のように、背を窄めて歩いていた印象がある。釧路は中心街の空洞化が問題になっているが、既にこの当時から大通は閑散としていた。

途中、十字街という駅前通りの中心を通る。多くのバスがここに立ち寄るので、バス停は賑わっていた。すぐ先、釧路のシンボルである幣舞橋の右側にはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにならった海産物中心のモール「フィッシャマンズワーフMOO」が見える。西武(セゾン)グループによって作られた巨大な建築物は、前述した毛綱 毅曠氏がデザインし、MOOと云う名称は糸井重里氏が名付けた。当時、糸井氏は「おいしい生活」などのキャッチコピーで大人気、コピーライターという職業を花形にした人だが、西武系の仕事が多かった。

幣舞橋の川べりには小さな漁船が停泊しているが、MOOの前には観光船のクルーザーも休んでおり、新しい釧路と古い釧路が共存しているかんじだ。前述した花時計下の日銀前のロータリーを回ったバスは南大通へ入る。

一歩、通りへ入ると近代的なビルがなくなり、閉ざされた商店や廃屋が増えてくる。歩いている人の数も極端に減る。右手が港で左側は急な丘になっている。ほとんど崖と云ってもよく、丘の上にも民家が並んでいる。 かつて市内唯一のホテルであった釧路東映ホテル(現・ホテルロイヤルイン 1987年頃に釧路駅前へ移転)も1985年頃までこの丘の上にあったらしい(現在は寺院になっている)。

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左・啄木ゆめ公園バス停前 右・壁面に啄木の句が書かれてる釧路シーサイドホテル

このあたりが釧路の旧市街であり、啄木と恋仲であった芸者小奴にまつわる史跡も多い。釧路市では啄木コースと名付けて、観光ルートにしている。実は啄木がどういう人物かほとんど知らなかった。貧困、流浪、夭折といったイメージ程度なら浮かんだが、函館-札幌-釧路と道内を転々とし、新聞記者をしていたことさえも初耳で、正直、物見遊山の見学だった。

最初に降り立ったバス停が米町公園であった。米町公園は古くからある釧路を代表する観光スポットであり、米町周辺が釧路発祥の地と云われている。。バス停から坂を登ると右手に小さな公園があり、釧路港が一望できる。正面には製紙工場の煙突、晴れた日には阿寒の山々を見渡せる。今は灯台を模った展望台があるが、登っても、登らなくてもあまり景色は変わらない気がする。しかし、古くから釧路のシンボルのような場所だ。

ここにも啄木の歌碑がある。「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」と詠んでいるが、わたしが初めて訪れた時は釧路港に氷が浮かんでいた。その後、釧路を訪れると決まりごとのようにこの公園を訪れる。特に天気がよく、空気が澄んだ朝がよい。釧路へ来たことが実感できる米町公園だ。

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晴天の米町公園から阿寒連山の望む

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