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国際プロレス・ラストマッチ羅臼大会から28年が経過した


1974年蔵前で開催されたVガニアとBロビンソンのAWA世界戦 少年時代の管理人がナマで観戦 伝説の名勝負だ
今日、8月9日は国際プロレスのラスト興行が羅臼町で行なわれた日である(1981年)。1967年の団体創設以来、力道山の流れを汲む日本プロレス、そこから独立をしたA猪木の新日本プロレス、G馬場の全日本プロレスの後塵を拝し、経営不振や選手の離脱・引き抜きと闘いながら15年間持ち堪えたが、テレビ中継の撤退(東京12チャンネル)が決定打となり、最果ての地・羅臼で運命が尽きた。
最終シリーズとなった「ビッグサマーシリーズ」は、経営危機が噂され、これがラストシリーズになるのではないかと業界情報に強かった「週刊ファイト」に書かれいた(当時編集部にターザン山本がいた)が、管理人は最期を見届けようと北海道観戦ツアーを計画した。関東から東北をまわり、北海道へ上陸するシリーズであったが、すでに資金難であったので、後楽園ホールなど都内の会場では開催されず、町田市の商店街駐車場が開幕戦となっている。
今回、当時の日程についてはいろいろ調べたがわからなかった。管理人の記憶や持ち合わせの資料を辿ると、道内シリーズは室蘭市体育館-コア美唄特設-芦別市-根室市青少年センターそしてラストの羅臼小学校グランド特設で開催されたのではないか。
室蘭ではエースのラッシャー木村が金網デスマッチによるIWA世界選手権が行なわれている。相手はB級ロートルのジ・エンフォーサー(ギロチン・ゴ-トン)であったが、日本では最初で最後の金髪女性マネージャー・バニーキャロルのスタンガンと火炎攻撃に堪えながら、流血KOに追い込んでいる。これがラッシャー木村最後のIWA世界戦であり、その翌月、新日本に登場して、伝説の「こんばんは発言」となる。
根室ではマイティ井上(今はノアのレフリー)&アニマル浜口組(気合だー)が金網タッグデスマッチによるIWA世界タッグ選手権をT・ギブス、J・オーツ組相手に行なっている。最終戦の羅臼でもメインイベントのあとに金網デスマッチが行なわれた。今でも現役の鶴見五郎が登場したが、この金網デスマッチは国際のウリであったが、結果的に自らの首を絞めてしまった。
今でも忘れられのが「プロレス」誌のグラビアだ。背景は羅臼の海と夕闇に染まる国後島のシルエットがラストに相応し過ぎる。主催者発表で1200人だが見た感じでも千人近くは居そうでなかなかの盛況だ。また、当時、羅臼か根室の旅館で淡々と朝食のトーストを食べる選手の姿が印象的であった。


この金網デスマッチだが1970年に最初に決行された。当時、テレビ中継をしていたTBSのアイデアであり、日本ではタブーとされていた「デスマッチ」を予告なしに、生中継でやった。視聴者からの反応は残酷過ぎるということで以降、テレビの金網は12チャンネルが解禁するまで行なわれなかった。凶器や流血は当時、日本プロレスの方が派手(ブラッシーやエリック、ブルーザーなど)であったので、金網の檻に入るのがショッキングであったのであろう。この辺りの話は管理人が行く居酒屋に、当時の国際プロレス担当のディレクターが来られるので、「秘話」が聞ける。また、機会があれば紹介をしたい。
最初に起用されたのが、ラッシャー木村である。力道山を彷彿させる黒タイツでレトロな雰囲気で登場、いきなり悪役外人の凶器攻撃で血ダルマになる。耐えに、耐え抜いたところで「このヤロー!!」と叫び、逆襲が始まる。自分の額に突き刺さった凶器(ボールペンなど)を引っこ抜き、憎き外人にチョップの雨あられ。観客は総立ちで大興奮。こうして金網デスマッチの鬼・ラッシャー木村は誕生する。
しかし、これが団体を窮地に追い込む結果に。地方では金網をやらなければ興業が打てない。当初はタイトル戦など因縁絡みの、大会場用のプログラムであったが、次第に乱発が始まり、何の因縁もない同士が順番に担当するようになってしまった。プロレス雑誌などでは残酷ショーなどど非難されるので、事前に発表をしなくなってくる。東スポには翌日試合結果が出るが、金網をやっても、記録に残っていない。登場した選手が全く別の試合に出ているなどいい加減そのものであった。本来なら堂々とPRするべきものを隠れてやるのも、国際らしい。商売が下手で、弱気だ。
かなりディープな話になったが、国際ファンの管理人はこのラストシリーズを是非観戦したかった。国際プロレスには高校時代、プロレス研究会をつくった折、大変お世話になった。選手、フロントの皆さんは人が良く、義理人情の厚い集団であった。あのアニマル浜口さんを見れば何となくおわかりであろう。管理人は羅臼が最期の試合になると思い、北海道観戦旅行の計画を立てたが、当時の道東は遠くて、旅費も足りずに断念をした。今では後悔をしているが。
昨年、羅臼町を訪れた際、「町民グランド」を探してみたが、見つからなかった。今でもあるのであろうか。ちなみに前日に興業が行なわれた根室青少年センターは現存する。あれから28年が経過したが、オーナー社長で苦労をひとりで背負い込んだような吉原功社長は、団体崩壊後、50代の若さで亡くなられている。気の毒であった。グレート草津選手も昨年亡くなられたが、その話は拙ブログで書かせていただいた。
今回、ニコニコ動画から1974年11月に開催された「AWAチャンピオンズシリーズ」のVガニア・Bロビンソン戦を貼り付けた。蔵前国技館で行なわれたが、13才の管理人はナマでこの試合を観戦している。これぞプロレスの教科書とでも云えるような奥深い戦いであり、思い出の名勝負だ。大技は少ないが、逆にリアリティを感じ、今のプロレスよりも遥かに面白い。説得力があるプロレスとはこういう試合のことをいう。実はこの時の蔵前は空席だらけであった。管理人は2階席を買ったが、呼ばれて1階の桟敷に降りて、砂被りで観戦をした。多分、2千人も入っていなかったと思う。
国際プロレスは金網デスマッチ以外にも日本人同士のタイトル対決(木村と小林)の実現、真剣勝負に近く、暗黒のアマレスのような雰囲気があった欧州プロレスとの提携(そこからBロビンソンが誕生)、ロビンソンなど外人レスラーを善玉にして日本側に付ける、ストロングスタイルがウリであった未知の団体AWAとの提携、ルチャリブレルールの導入など数々の施策を打ち出している。真面目過ぎたのか、裏目に出ることが多かったが、その後のプロレス界に貴重な遺産を残している。
当時の選手は殆ど残っていない。いちばん若かった冬木は夭折。前述した鶴見五郎もセミリタイア、若松市政(あのマシン軍団の団長KYワカマツ将軍)は時折、道内の試合でゲストで登場する。今は芦別市議会議員だ。また、余談だがラストの羅臼大会の後、旅費稼ぎか試合をしながら東京へ戻ったという話がある。詳細は全くの不明だが、公式戦は羅臼がラストだが、道内から東北で試合をしていたらしい。ミステリアスで興味深い。


このエルマンソー兄弟ははじめて見たが恐ろしく技が斬れる。欧州プロレスの凄みがわかる。また、草津、杉山もレベルが高く、練習量の多さが伺えた。玄人を唸らせるプロレスだ。

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